会津絵ろうそくとは
会津絵ろうそくの歴史は五百年以上前、時の領主十一代芦名盛信公が漆樹の栽培を奨励したことからその歴史は始まりました。
十八代盛隆公は織田信長公に千丁のろうそくと駿馬を献上し、大変喜ばれたと記録にもあります。 天正年間には会津に移封された蒲生氏郷公が、郷里近江よりすぐれた技術者を会津に招き入れ、ろうそくの改良を熱心に進め一大産業として確立させたことで更に有名になりました。
江戸期になると美しく彩色された絵を施したろうそくが将軍家や宮廷への献上品としても使われ、上質のろうそくは全国的に広く知られるところとなりました。また、藩はろうそくを専売品とし、貴重な財源として活用もしました。
多大な歴史の基、現代では絵ろうそく職人が少なくなりはしながらも、会津人特有の頑固気質を持った人たちにより大切に作り続けられています。今も変わらずその美しさを愛されている会津が誇る伝統工芸品なのです。
会津鶴千代の南天福寿
会津鶴千代の作品のうち、伝統の絵柄としては「南天福寿」という縁起物があります。 その作品には江戸時代まで遡ったこの様なエピソードもあります。
江戸時代、時の将軍徳川綱吉公は生来体が弱く、多くの難題を抱えていました。会津藩は綱吉公に何か気の利いた献上品をと、「難を転じて福と成す」の意を込 め、「南天と福寿草」を描いた会津絵ろうそくを送ったのです。綱吉公はその心遣いを大変喜ばれました。
このことから会津絵ろうそくの名が更に全国に広ま り、主に神社仏閣への奉納や高級な贈答品として使われるなど上流社会で愛用されました。特に婚礼の際には一対の会津絵ろうそくが灯され、これが『華燭の典』の語源になったとも言われています。
製法
伝統を繋いできた昔ながらの製法をご紹介致します。 ※画像をクリックして下さい。画像が拡大され工程順に表示されます。